三澤寺の歴史

 鎌倉時代に創建された三澤寺は、三澤入道(みさわにゅうどう)で知られる三澤昌弘の開創したお寺です。

 

日蓮大聖人から『三澤抄(みさわしょう)』『三澤御房御返事』の二通のお手紙を賜った信徒で、日蓮大聖人が御入滅された様子を描いた『日蓮大聖人涅槃図』にも、その姿が描かれています。


 三澤入道の祖父 三澤小次郎は、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも名前が登場する駿河七勇士の一人で、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた御家人で、当地の地頭職をつとめていました。


 三澤昌弘は日蓮大聖人からお手紙を賜り、感銘をうけて発心し、法昌日弘(この号は、日蓮大聖人より賜ったといわれています)と改め、読経と唱題に心命を捧げ武家屋敷であった館(やかた)を寺に改めました。これが三澤寺の開創です。


 三澤寺の10世 実成院日相上人は身延七面山で修行すること一千日。霊験を得て世に「三澤流」という祈祷の流儀を出すまでになりました。

 

徳川家康公とお万の方の孫で茶々姫(芳心院)の嫡男、松平綱清公が病魔にかかった際には良医百術の験なく困迷していたとき、日相上人の高名を聞き、上人の祈祷により病を治しました。

 

松平公深く感銘し、本堂と庫裡並びに七面堂、石垣を建立し、代々松平家の祈祷所として寺領四丁四方の寄贈をうけました。


 当山三十三世大玄院日滋上人は当山から映画「男はつらいよ」寅さんのお寺として有名な東京の柴又帝釈天(題経寺)へ入寺し、そして身延山八十八世法主(ほっす)さまになられた名刹寺院でもあります。


旧街道付近から見た三澤寺と富士山。

 

鎌倉時代には、三澤寺から鎌倉までは、徒歩で4日ほどかかった。

伊能忠敬(いのう ただたか)が寛政12(1800)年から、足かけ17年をかけて全国を測量して作った、日本で最初の近代的な日本地図『大日本沿海輿地全図』にも三澤寺が描かれている。

日蓮大聖人が御入滅されたときの様子が描かれた『日蓮大聖人涅槃図』

 

日蓮大聖人の枕元には、三澤寺の開山上人で、日蓮大聖人の六大弟子の一人、六老僧「大国阿闍梨日朗上人」と、開基上人の「三澤入道」と、その妻が描かれている。